Welcome
留まることを知らない新時代のデュオ
いま、もっとも未来に耀いているヴァイオリニスト
アリーナ・イブラギモヴァ
&
ロン・ティボー国際コンクールで優勝したイブラギモヴァの盟友ピアニスト
セドリック・ティベルギアン
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会[全5回]
2016年日本ツアー オフィシャル・サイト
公演日程
[東京公演:全5回]主催:王子ホール
2015年10月1日(木)19:00 銀座・王子ホール Vol.1 [終了]
2015年10月2日(金)19:00 銀座・王子ホール Vol.2 [終了]
2015年10月3日(土)15:00 銀座・王子ホール Vol.3 [終了]
2016年3月24日(木)19:00 銀座・王子ホール Vol.4 [好評発売中]
2016年3月25日(金)19:00 銀座・王子ホール Vol.5 [残席僅少]
[名古屋公演]主催:電気文化会館
2015年10月6日(火)19:00 名古屋・電気文化会館 [終了]
NEWS
CONCERT INFORMATION
[東京公演:前期]主催:王子ホール
【当日券情報】[東京公演:後期]主催:王子ホール
2016年3月24日(木)19:00 銀座・王子ホール Vol.4 [好評発売中][名古屋公演]主催:電気文化会館
2015年10月6日(火)19:00 名古屋・電気文化会館[公演は終了いたしました][2015年日本ツアー公演プログラム]
ト長調 K301
変ロ長調 K10
変ホ長調 K481
ト長調 K379
ヘ長調 K30
ハ長調 K14
ホ短調 K304
ヘ長調 K376
変ロ長調 K15
イ長調 K402
ハ長調 K6
ニ長調 K29
ト長調 K9
ニ長調 K7
イ長調 K305
変ロ長調 K454
ト長調 K27
ハ長調 K296
ヘ長調 K547
変ロ長調 K31
ニ長調 K306
[2016年日本ツアー公演プログラム]
ヘ長調 K.377
変ロ長調 K.8
「ああ、私は恋人を失った」の主題による6つの変奏曲 ト短調 K.360
ハ長調 K.303
ハ長調 K.403
ヘ長調 K.13
ハ長調 K.28
変ホ長調 K.26
変ロ長調 K.378
変ホ長調 K.380
イ長調 KV.12
ト長調 K.11
変ロ長調 K.570 (ヴァイオリン追加バージョン)
変ホ長調 K.302
「羊飼セリメーヌ」の主題による12の変奏曲 ト長調 K.359
イ長調 K.526
PROFILE
© Rikimaru Hotta
アリーナ・イブラギモヴァ:ヴァイオリン
Alina Ibragimova : violin
今、もっとも未来へ耀いているヴァイオリニスト!
バロック音楽から委嘱新作までピリオド楽器とモダン楽器の両方で演奏するアリーナ・イブラギモヴァは、ロンドン交響楽団、フィラデルフィア管、クリーヴランド管、ドイツ・カンマーフィル・ブレーメン、シュトゥットガルト放送響、フランス放送フィルハーモニー管、マリインスキー劇場管、フィルハーモニア管、エイジ・オブ・エンライトメント管、BBCの全てのオーケストラ等と共演を果たしている。アリーナ・イブラギモヴァ関連リンク
オフィシャル・ウェブサイト :http://www.alinaibragimova.com/
© Jean Baptiste Millot
セドリック・ティベルギアン:ピアノ
Cédric Tiberghien, Piano
TICKET INFORMATION
[東京公演:前期]主催:王子ホール
【当日券情報】[東京公演:後期]主催:王子ホール
公演チケット:11月28日(土)10:00発売
[名古屋公演]主催:電気文化会館
2015年10月6日(火)19:00 名古屋・電気文化会館 [公演は終了いたしました]MEDIA
■ディスコグラフィー
ESSAY & INTERVIEW
自然であることの凄み
-アリーナ・イブラギモヴァへの期待
青澤隆明(音楽評論)
Sussie Ahlburg
アリーナ・イブラギモヴァのヴァイオリンには、天性の美しさがある。それは、多様な作品を旅するなかで、決してくもることのない澄んだ輝きをもつ。清明さや朗々とした表情は、鋭い直感と即興的な自由にそって局面ごとの変化を柔軟に歩みながら、彼女自身のの品性として相応しい光をいつも湛えているように思える。
バッハやイザイの無伴奏、セドリック・ティベルギアンの闊達なピアノと拓くべートーヴェンのデュオ・ソナタなど、近年の日本でのステージは、毎回が新しい驚きの連続だった。それは聴き手にとってだけでなく、演奏者自身がそのように音楽を生きていくことの率直な反映であると、素直に感じさせられる質のものであった。
アリーナ・イブラギモヴァは、いたって自然で、変化に対して驚くほどに構えがない。アイディアを試すというような意図は、音楽の流麗な発露と、彼女自身の演奏への一体化のなかで、いちいち意識として感じとられることはない。細部までよく考えられ、大胆かつ繊細に試され、豊かに経験されたうえで、ひとつの流れのなかでの必然へと、しかし力むこともないほどによく消化された表現となっている。つまりは、聴き手にも細部への執着を促すことはなく、音楽全体を活きた生命として自ずと体験するのをまかせるように。
ピリオド楽器とガット弦、モダン楽器と巻ガット弦を自在な技法で弾きこなしながら、相互のパースペクティヴから最大の成果を導くように、イブラギモヴァはそれぞれの作品の語りにふさわしいかたちを与える。繊細と大胆双方への想像力の拡張が、語彙やアイディアとなって確かな表現を支えながら、そうした個々の表現の工夫が、作品そのものの生命の流れを恣意的に分断することがない。発想が息づかいとなって、彼女のヴァイオリンを歌わせている。だから、たとえばバッハなどでヴィブラートをつよく切り詰めるのも、音量の強弱や感情の起伏を大きく画布にくり広げるのも、自然な音楽感情の発露として刻一刻と受けとめられる。
もちろん、必要なときには、激しくアグレッシヴに弾き進むし、ダイナミックな振幅に身を委ねるまでだ。2014年春、トッパンンホールでのイザイ全曲に触れて、驚くほど果敢で、気焔と情熱を奔出させたイブラギモヴァの強靭さにどぎまぎした。これはそうあるべき作品解釈ということを超えて、そうなるべき日だったのだ、と想像されるような生鮮さ。イザイの無伴奏ソナタ6曲に集中して取り組む意欲と緊迫感が前面に立つ、主情的でパッショネイトな挑戦のドキュメントとして過熱したリサイタルだった。先に記したバッハや、ティベルギアンとのべートーヴェンとは異なる風貌だが、それこそがイブラギモヴァのコンサートに生で立ち会う愉しみでもある。
冴えやかな技巧と抜群の安定感をもちながら、強い緊張をもって音楽を語っていくなかには、奏者自身のふとした心理が明かされるように、ときにはちょっとした緩みだってある。14年冬のバッハの無伴奏でもそんな場面はあった。そうしたとき聴き手は、緊張から解放されるという意味ではなく、イブラギモヴァ自身の求めるのが予め目された構築にそって完成度を高めることにとどまらず、瞬間瞬間の弾き手の人間的な息づかいであるのだと自然に感じられる。この演奏が理想郷のごときものではなく、いまという時間のなかに生々しく充ちていることに、改めて気づかされる。演奏はいつも生成されるプロセスのなかに起こる、そんなあたりまえの事実が、人間の営みとして好ましく納得されることもまた、イブラギモヴァの作品ごとの、演奏ごとの生鮮な感覚への信頼へと繋がっていく。
セドリック・ティベルギアンとのデュオはもう10年にもなるのだろうか、一昨年にはべートーヴェンのソナタでも見晴らしのいい演奏を聴かせたふたりが、この秋からモーツァルトに集中して取り組む。王子ホールでのべートーヴェンもそうだったが、CDレコーディングに結実したシューベルトのデュオでも、イブラギモヴァとティベルギアンは作曲家の変遷と進化や深まりを、作品ごとを旅するように明解に物語っていた。そうした展望のなかに、生き生きと時を刻んでいくのが、ふたりの聡明さと節度の確実さだ。チクルスで採り上げることで、創作の歩みを追うような発見の道すじがきちんと考えられている。
天衣無縫の即興性と感性の閃きを求められること、そしてなによりモーツァルトには音じたいの美しさも含めて素材感の良さが不可欠であること、ティベルギアンとの触発的な対話の愉楽と親密な信頼。そうしたすべてが、モーツァルトに自然と微笑みかけることになるのだろう。幸福な場合は、それこそ、モーツァルトと微笑みかわすように。
予測不能の変容力
~イブラギモヴァとティベルギアンのモーツァルトに期待する
矢澤孝樹(音楽評論)
Sussie Ahlburg
すばらしい女性ヴァイオリニスト―こういう言い方が今や意味のないものであることは承知しているけれども、ジェンダーあるいはそれ以前の固有の美質というものはたしかにあると信じたいのだ―が数多活躍する現代において、私が特にその個性と共通性において注目する3人は、イザベル・ファウスト、パトリツィア・コパチンスカヤ、そしてイブラギモヴァの3人である。それぞれ1960年代、70年代、80年代生まれの彼女たちは、未知のレパートリーやアプローチへの開拓精神と、ピリオド楽器演奏(あるいはH.I.P)の洗礼を拒まず、結果として異なる時代を様式的差異を十分に意識しながら行き来できる柔軟性を併せ持つ。
そしてそれぞれの個性と言えば、ファウストの包容力と自然さ、コパチンスカヤの憑依的魔力に対し、イブラギモヴァは「変容力」とでも形容すべきだろうか。ハルトマンの厳粛さ、ロスラヴェツの2曲の協奏曲の様式的変化をみごとに描き出したかと思えば、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータでは、ピリオド楽器奏者以上に過激にヴィブラートを減らし、凍りつくように緊迫した空間を創りだしていた。一方でルクーやラヴェルを香り高く奏し、プロコフィエフには圧倒的切れ味を、そしてイザイは内在する魔性を露わにし…まったく、手塚治虫の『火の鳥 未来編』に登場する、何にでも姿を変えることができる不定形生物・ムーピーのようだ。
いやいや、この魅力的なヴァイオリニストを、架空の不定形生物などにたとえてはいけない。それにムーピーは、飼い主の意志に反応して姿を変えるが、イブラギモヴァは自発的に変容してゆくのである。しかも、一聴すると細身だが、芯のあるしなやかな描線で鮮明に楽曲を造型してゆくその特質には、いささかの揺るぎもないのだ。
そのイブラギモヴァが、盟友セドリック・ティベルギアンと共に、モーツァルトのデュオ・ソナタを奏でる。このコンビは一昨年前に、ベートーヴェンのソナタのみごとな実演を聴かせてくれた(CDもある)。放埓さや大言壮語を慎重に排する一方で、遊びやきわどい逸脱を随所に潜ませつつ、聴き手の関心を一瞬たりともそらさないスリリングなベートーヴェン。ならばこのコンビのモーツァルトは、いったいどうなるのか。どちらかといえばピアノに主導権があるそのソナタたちを、ティベルギアンはどう牽引し、イブラギモヴァはいかなる変容力をもってそこに絡んでゆくのか。予測不能の変容力によって、モーツァルトのソナタたちが新しい貌を見せてくれるのを、心待ちにせずにいられようか!
アリーナ・イブラギモヴァ讃
舩木篤也(音楽評論)
R. Hotta
一言でいえば、大人の魅力。アリーナ・イブラギモヴァのステージに圧倒されるときの感覚を、簡潔に表そうと思ったら、そんなことばが思い浮かんだ。
若いわりに大人びて見えるということか? と問われれば、たしかに、それもある。うっすらと微笑んではいるが、客席をほんのすこし睥睨するようなまなざしで、むやみに愛想を振りまかない。身のこなしは─ダンサーのようによく動くけれども─落ち着いており、かりに一瞬プレイが危うくなりそうになっても、動じた色をひとつも見せない。そうしてすぐに解決策を見いだす。さすが、6才の時からオーケストラを相手に舞台を踏んできただけのことはある、と言うべきか。
だが、なんといっても大人なのは、出てくる音楽そのものである。
たとえば、バッハの《無伴奏》。21世紀にキャリアを積んだヴァイオリニストの多くがそうであるように、彼女もまた、モダン楽器を用いながら、フレージングや、付点リズムの解釈、舞曲的キャラクターの探求などにおいて、「ピリオド」的知見を援用する。ところが、ダイナミックレンジに関しては、これをまったく反ピリオド的に、じつに幅広くとるのだ。ソナタ第2番のグラーヴェ楽章における最弱音など、そこまで行くかと、思わず息を呑んだほどである。
そしてここが重要なのだが、その際、ピリオドとモダンの混合とか、折衷とか、そういったことを微塵も感じさせない。つまり、全体のどこにも「ここはこのレシピで、あそこはこのレシピで料理してみました」的な恣意の痕がない。大人と呼ぶゆえんである。
そう、大胆かつ自然。
セドリック・ティベルギアンとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを演奏したときもそうだった。ティベルギアンのピアノは、かなり「仕掛けて」くるピアノだ。その意味では、イブラギモヴァよりも、やんちゃと言えるかもしれない。だがそれを、彼女は受けて立つ。たとえば、第7番の第1楽章。ドラマチックなこの曲で、ねっとり歌ったかと思うと、マーチを実にあっけらかんとやったりする。3日間かけたツィクルスで、音量の最高点を第9番《クロイツェル》に設定する賢さにも、舌を巻いた。
そんな二人が、このたびモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを、ここ日本で5回かけて全曲演奏するという(東京・王子ホールにて)。今秋は、うち最初の3回。この全曲プロジェクトは、彼らの本拠地ロンドンでも昨年始めたばかりのもので、まだ録音もリリースされていないから、いわば初モノと言っていい。イブラギモヴァは、同じくモーツァルトのソナタを、去る7月にはフォルテピアノ奏者のクリスティアン・ベザイデンホウトともやったようだから、そこでの経験も加味された、いわば東京ヴァージョンが聴けるかもしれない。
ボディはしっかりあるが、甘くべったりとした響きではなく、どちらかといえばスル・ポンティチェロぎみの、辛口ヴァイオリン。シューマンやベルクの渋い協奏曲も好んで弾く。そんなところにも筆者は魅かれる。「未体験だが、それなら」と思われた向きは、ぜひ、この機会に足を運んでみてほしい。