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巨匠への道を歩むピアニスト
ポール・ルイス
ハイドン・ベートーヴェン・ブラームス プロジェクト2017/2018/2019
HBB project オフィシャル・サイト
NEWS
CONCERT INFORMATION
王子ホール
HBBプロジェクト Vol.1
[公演終了]
王子ホール
HBBプロジェクト Vol.2
[公演終了]
王子ホール
HBBプロジェクト Vol.3
[公演終了]
王子ホール
HBBプロジェクト Vol.4[公演終了]
ハイドン・ベートーヴェン・ブラームス プロジェクトプログラムの概要
PROFILE
© Jack Liebeck
「ベートーヴェンのソナタに関しては、往年の巨匠たちや現代のピアニストたちが数々の名録音を残しているが、その中から一つだけ全曲録音を推薦するとしたら、ルイス氏の比類ないレコーディングを選ぶだろう」
アンソニー・トマシーニ <ニューヨーク・タイムズ>
この世代をリードする、国際的に名の知られたピアニストの一人。ロイヤル・フィルハーモニック協会のアーティスト・オブ・ザ・イヤー賞、サウスバンク・ショウのクラシック音楽賞、ディアパソン・ドール賞、2年連続のエディソン賞(オランダ)、第25回キジアーナ音楽院国際賞(イタリア)、ドイツ・シャルプラッテン賞、ライムライト賞(オーストラリア)、そして2008年のレコード・オヴ・ザ・イヤーを含む3つのグラモフォン賞ほか数々の賞を受賞。また2009年にはサウサンプトン大学より名誉博士号を授与されている。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲、ピアノ協奏曲全曲およびディアベリ変奏曲を取り上げた演奏会シリーズとハルモニア・ムンディによる録音は世界中から称賛されており、その集大成として、2010年にはBBCプロムスにおいてベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲を一挙演奏した初のピアニストとなった。2016年、大英帝国三等勲爵士CBEを授かる。ポール・ルイス関連リンク
オフィシャル・ウェブサイト :http://www.paullewispiano.co.uk/
■主なCD
シューベルト「ピアノ・ソナタ14番&19番」(2001年 harmonia mundi)TICKET INFORMATION
王子ホール
HBBプロジェクト Vol.4(最終回)
MEDIA
ESSAY & INTERVIEW
最終回の聴きどころ
青澤隆明(音楽評論)
©Kaupo Kikkas
さて、いよいよHBBプロジェクトがこの秋、最終回を迎える。ベートーヴェンのハ長調変奏曲へ向かうその前に、プログラム前半の曲目として、ハイドンのホ短調ソナタHob.XVI:34op.42、そしてブラームスの3つの間奏曲op.117が組まれている。
ハイドンのホ短調ソナタは1783年から84年にかけてロンドンで順次出版された3つのソナタの最後の曲で、本プロジェクトのなかでも初期の作品にあたる。プレストの第1楽章は、ハイドンには異例な8分の6拍子で書かれ、この速い律動が曲の性格を決定的づける。デュエットのようなト長調の第2主題にもリズミックな運動感は宿り、展開部の主題労作も緊密な構成観を示す。中間楽章アダージョは、平行調のト長調で書かれ、旋律が装飾的に歌われていく。推移部を経て、アタッカでホ短調の最終楽章ヴィヴァーチェ・モルトに進む。ハイドンがこの時期得意とした5部のロンド・フィナーレで、ホ短調とホ長調が交替していく。楽章冒頭に”innocentemente”、すなわち無垢に、飾らず、素直と記されているが、それこそポール・ルイスが身上としてきたところではないだろうか。
ブラームスの「3つの間奏曲」op.117は、1892年夏にバート・イシュルで作曲された2つのピアノ曲集のひとつで、翌夏のop.118とop.119に先立つ連作をなす。1892年11月に出版されたop.117を、ブラームスは「わが苦悩の子守歌」と呼んだと伝えられる。
変ホ長調、変ロ短調、嬰ハ短調の3つのインテルメッツォは、比較的ゆったりしたテンポをとり、透明感のある和声と巧妙な対位法のもとで、シンプルかつ集約された魅力を放っている。抒情の深みと豊かで内面的な歌に充ちたブラームス晩年の円熟を美しく切実に伝える。アンダンテ・モデラートの第1曲の冒頭には、ドイツ・ロマン派の詩人ヘルダー編による『諸国民の声』からスコットランド詩のドイツ語訳「恵まれない母親の子守歌」の冒頭2行が引用され、同じ詩集にもとづくバラードop.10-1との関連もみせ、また旋律はソプラノ独唱の「子守歌」op.49-4にも通じるところがある。
そうして、まさしくプログラムの間奏に置かれたブラームス内心の歌のさきに、おそらくかなりの落差をもって、ディアベッリのワルツがまず奏でられ、そこからのさまざまな変容が画期的な壮大さで展開していくわけだ。さながら、内省から爆発へ、というように。
ベートーヴェンが最後のピアノ・ソナタを書き上げた翌年、1823年春に完成したのが、その「ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲 ハ長調op.120」である。1819年に着手したが中断したこともあり、3つのソナタ、「ミサ・ソレムニス」、第9交響曲などと創作時期が重なったのがまた、音楽世界の広大な深まりと関係したに違いない。作品の献呈先となったのは、作曲者の「不滅の恋人」と言われるアントニア・ブレンターノだ。
べートーヴェンの後期ソナタが、終曲op.111においてハ短調から、ハ長調の変奏曲へいたって結ばれていることを思い出そう。ハ長調の調性のもつ光彩が、この大変奏曲op.120にもしっかりと注いでいる。しかも、ベートーヴェンの実質的な初作で、最初の出版作となったのは、彼が11歳で書いたハ短調の変奏曲で、これもハ長調で終結するものだった。
そして、ポール・ルイスのHBBプロジェクトの始まりはハイドンの軽やかなハ長調ソナタで、終わりにベートーヴェンのハ長調の大変奏曲がひとつの円環を結ぶように置かれていることもまた象徴的である。大団円、と言いたいところだが、それにはまだ謎の余韻も残りそうだ。
ディアベッリのワルツ主題を「不器用な切れ端」とみなし、多数の作曲家との競作というかの版元の依頼についてはおそらく苛立ちをみせながら、怒りに近い攻撃性、アイロニカルな奇想も炸裂させつつ、ベートーヴェンは熟達した性格変奏の手法で、唯我独尊の多様性を大胆不敵に誇示してみせた。しかも、ここでベートーヴェンはたんに「Variationen(変奏群)」と曲を名づけるのではなく、バッハのいわゆる「ゴルトベルク変奏曲」と同様に、「Veränderungen(変容・変質・変化群)」という、より広義の言葉を採った。大胆にして精緻、多彩で巧妙な偉才の「変容」の技法が、この巨大な表現宇宙に果敢な挑戦として結ばれたのである。
33の変奏曲はテンポも性格もそれぞれに変化し、ワルツの3拍子は4拍子や2拍子にも転じ、ときに小節数も変わる構成をとる。ざっと調性の変化をみれば、第9変奏がハ短調、第13変奏がイ短調、第29から第31変奏がハ短調、続く第32変奏のフーガが変ホ長調をとり、推移部を経て、終曲でハ長調に帰っていく。
最後の3変奏の組み立ては終局に向かって、時代を遡るように超えていくものだ。ちょうどバッハの「ゴルトベルク」の変奏曲数30を超えた地点、ハ短調で連なる第31変奏でバッハふうのアリオーソを謳い、続く第32変奏では厳格なフーガを続ける。ここまでロマン派を予見する要素も含む多様な変容を経てきた主題は、こうして古様式を経て最後の第33変奏にいたると、ワルツの先代たるメヌエットを装い、ベートーヴェンの後期ソナタにも親しい鍵盤的な煌めきをともなって、ハ長調の光彩へと蒸発する。
はたして最後に訪れるのは、救済なのか、帰天なのか、中座なのか、消失なのか――。
ポール・ルイスのHBBのプロジェクト最後の瞬間、結びのハ長調和音がどのように響くのか、いまからはちょっと予想できない。すべてはこの秋、その場に臨んでみないことには……。
クリスタルなピアノの輝き~ポール・ルイスの音&音楽に魅せられて
池田卓夫(音楽ジャーナリスト@いけたく本舗)
2010年、BBCプロムスでベートーヴェンの
ピアノ協奏曲を弾くポール・ルイス
ポール・ルイスは1972年にリヴァプールのごく普通の勤労者の家庭に生まれ、大ピアニストのアルフレッド・ブレンデルらに才能を認められて頭角を現したものの、チャイコフスキーやショパンといった難関コンクールの覇者ではなく、ロンドンの室内楽の拠点ウィグモアホールを足場に一歩一歩、評価を高めてきた「たたき上げ」のピアニストである。とりわけ英国内では「若き巨匠」の地位を固め、2016年にはもう、CBE(コマンダー=大英帝国勲章第3位)に叙せられている。。
ルイスの演奏の魅力は、何といってもクリスタルな輝きに満ちたピアノそれ自体の音色の素晴らしさにある。深海まで透明な海水を思わせる響きは、作曲家と作品の核心へと一直線に届き、純粋無垢な音のメッセージとして地上の私たちに届けられる。余計なトークや聴衆に媚びる素振りを一切みせず、黒いシャツ姿の質素な出で立ちでひたすら音楽に没入する姿勢は変わらない。ベートーヴェンに意外なほど潜んでいるユーモアのセンスとか、鍵盤音楽の改革者としてベートーヴェンの明らかな先駆者に当たるハイドンの新奇性、「諦念(あきらめの心境)」の1語で片付けられがちな晩年のブラームスが内面になお秘めていた激しいロマンの炎などなど、通り一遍の演奏では見落とされがちな側面にきちんと光を当て、楽曲の新しい魅力を描き出す。。
今シーズンは北米の夏の風物詩、タングルウッド音楽祭で目下絶好調のアンドリス・ネルソンズ指揮ボストン交響楽団と共演、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第12番」を弾く。同国人のダニエル・ハーディングもルイスに全幅の信頼を寄せる指揮者の1人。世界各地のオーケストラで、ブラームスの長大な協奏曲(第1番と第2番の両方)のソリストに起用してきた。私がルイスの素晴らしさを初めて体感したのはシューベルトの独奏曲だったが、リート(ドイツ語歌曲)のピアノ演奏にも秀でている。マーク・パドモア(テノール)とは、長期の視点に立ったリート・デュオのプロジェクトを進めている。
2010年7月にはロンドンの夏の大音楽イベント、プロムナード・コンサート(プロムス)でベートーヴェンの5曲の「ピアノ協奏曲」を「1シーズンの間に全部弾いたピアニスト」という記録も打ち立てた。その1年前に今は亡きチェコのマエストロ、イルジ・ビエロフラーヴェクが首席指揮者を務めていたBBC交響楽団を振り、ルイスがソロを弾いた同じ5曲のセッション録音盤(ハル モニア・ムンディ)は私の愛聴盤の1つ。クリスタルながら冷たさを一切感じさせず、澄み切った響きでベートーヴェンの内面世界から演奏効果までを曇りなく再現する、大人の演奏である。この原稿を書くために第1番と第5番「皇帝」だけを聴こうと思ったのに結局また、全5曲を飽きずに聴いてしまった。
2011年3月に東日本大震災が起きたとき、多数のアーティストが来日をキャンセルしたなか、ルイスは「私は日本人ではないですが、少なくとも地球市民として、みなさんと生きる世界を共有しています。自身の判断で渡航の安全を確かめ、予定通り日本へ向かいます」と、メッセージを送ってきた。彼のピアノ演奏にあふれる硬質の輝き、そこから溢れ出す無限の優しさの本質を一 瞬、みた気がした。
最後にやってくるものは……。
青澤隆明(音楽評論)
© Kaupo Kikkas
最後にどんな感情が訪れるのか、私たちは知らない。もちろん、終わりの予感は、どこかにはいつもある。しかし、それがいつほんとうの終わりになるのか、それはわからない。
人生の終わりになってどのような思いを抱くのか、最後の言葉はどんな響きになるのか、そこがほんとうに終わりであるのか、その期に臨んでみなければ、やはりそれは知り得ない。
曲には終わりがあって、知っている曲であれば、その地点へといたる見通しは立っている。それでも、終止線が引かれるところで、私たちがどのような思いを抱くのか、それはそのときどきの道行きや心境の移ろいによって微妙に異なってくる。どのような順序で、どのような角を曲がって、そこに辿り着くのかによっても変わってくる。
だから、ポール・ルイスのハイドン-ベートーヴェン-ブラームス・プロジェクトが今秋の第4回で締めくくられたとき、しかもよりによって「ディアベッリ変奏曲」のあの終わりが訪れた瞬間、自分がどんな感情をもつのか、聴き手にも、たぶん弾き手にもわかってはいない。
そもそも、HBBプロジェクトの曲の並びは、それぞれの作曲順に沿っているわけではない。ブラームスは間違いなく晩年の4連作のチクルスだが、ベートーヴェンは後期作のバガテルop.119とop.126、変奏曲op.120だけでなく、初期ソナタに通じ合う7つのバガテルop.33も加えられている。ハイドンのソナタに関しては1770年代から90年代までの諸作を組み合わせて、しかも相互に行き交うような性格をポール・ルイスは描き出してきた。
あえて時系列を思い出すなら、ベートーヴェンの最後のピアノ曲op.126は、プロジェクトの初回に採り上げられた。1990年代半ばにロンドンで作曲されたハイドンの後期ソナタは、初回の幕開けにハ長調Hob.XVI:50,op.79、第3回の終わりに変ホ長調Hob.XVI:52,op.82がこれまでに演奏されている。ブラームスに関しては、第2回に最後作の「4つの小品」op.119が組まれていた。巧みに回をずらして組んであるのが、またうまいところである。
つまり、チクルスは必ずしも、終わりに向かって歩いてきたわけではない。それでも、終わりの感覚は濃密に立ち込めている。しかし、それがほんとうのところ、なにを意味しているのかは、その地点に立ってみないことにはわからない。
そう言えば、昨秋ブラームス最後のピアノ曲集op.119を弾き終えた後、ポール・ルイスが語っていたのは、その終曲ラプソディで、最後にどうしてこのような怒りがやってくるのか、という衝撃についてだった。「ブラームスが怒っているのは珍しい。テンパラメントが激しいことはあっても、それは怒りの感情を伴うものではない。この最後のページで、どうしてか怒りが現れてくる。シューベルトのパッセージを思い出させるが、彼は怒りの後に、たいていは受容をしめす、だから私はアンコールにシューベルトのアレグレット(ハ短調 D915)を弾いたんだ」と言って、彼は微笑んだ。
さて、HBBプロジェクトについては、ブラームスの怒りに対する驚きだけでなく、回を歩むごとにさまざまな発見が、これまでもあった。
初回でまず興味深く示されたのは、このプロジェクトの曲順のローテーションを象徴するように、ハイドン、ベートーヴェン、ブラームスが互いの領域を侵犯するように、そこに相通じる性格をみせたことだった。
もちろん、3者を組み合わせれば、相違点はくっきりと際立ってくる。個性や資質の差異だけではなくて、選ばれた作品の様式的な違いというのもある。ハイドンはソナタ、ベートーヴェンはバガテル、ブラームスは性格小品と、まずは言うことができる。だが、前後の影響関係を除いても、ときにベートーヴェンはハイドンよりもハイドンらしく、ブラームスはさらに頑固にベートーヴェン的で、ハイドンはブラームスよりも感情的に響き出したのである。
昨秋の第2回と第3回では、とくにハイドンのみえかたが変容してきた。これは、作品ごとの内実というだけでなく、ポール・ルイス自身のハイドン理解の深化を率直に伝えるかたちをとった。初回の演奏ではハイドンの軽妙さも際立っていたが、第2回に演奏された2曲になると、先行するレコーディングと比べても明らかに演奏の規模が大きく、感情が深く捉えられてきたことがわかる。テンポもゆったりとして、曲の規模をより大きく捉えていたのは、若い年代の作品に精神的な深みを感じとったことの反映だろう。ベートーヴェンにしてもそうだが、初期と後期の相似や、ときには逆転がみられるのは偉才にはままあることだ。ブラームスの晩年作と合わせて演奏されたことが、その感情の懐を広げたようにも思える。
ベートーヴェンはバガテルop.33をいったんおけば、もちろんポール・ルイスのベートーヴェンのソナタ・チクルスの後に託された展望である。形式的にいえば、つまりはベートーヴェンがソナタを完結後、後期弦楽四重奏曲連作にも繋がる6つのバガテルop.126の多楽章的組曲構成、そしてさらに探究を進めた変奏曲形式の拡張的偉容が待ち受けている。数で言えば、7、11、6と多彩なバガテルを披露した後に、33の変奏曲がやってくるわけだ。
かくして、ピアノ音楽史上の巨大な宇宙の変容が、HBBプロジェクトの終局に、高峰のごとく聳え立つ。
かつてない新感触
ーHBB PROJECT のプログラミングの妙ー
柴田克彦(音楽評論家)
© Jack Liebeck
プログラミングの妙とはこのことだ! 2017年11月、ポール・ルイスが新たに取り組む「HBB PROJECT」の第1回を聴いて、それを心底痛感した。
ハイドン、ベートーヴェン、ブラームスの作品をミックスしたプログラムによる全4回の本プロジェクト。第1回は、ハイドンのソナタ第50番、ベートーヴェンの6つのバガテル作品126、ブラームスの6つの小品作品118、ハイドンのソナタ第40番という普段見ることのないラインナップである。
ハイドンのソナタ第50番がユーモラスなフレーズで始まると、音の動きにぐんぐん引き込まれていく。さりげなく雄弁で活力溢れるルイスの演奏は、ハイドンの奥深さを改めて呈示する。ベートーヴェンのバガテルは、アンコールなどで1曲弾かれると作曲者が誰なのかわからない、いわばニュートラルな性質を持っているように感じる。だからこそ繋ぎには最適だ。ハイドンの後に聴くとその影もよぎるが、曲集全体を晩年の本格作と捉え、かくも真摯に奏でればそれは一編のドラマとなる。こうなると次のブラームス晩年の小品集は、バガテルの相似形にすら思えてくる。だがそれでいて紛れもなくブラームス。ロマンティックな情感、例えば第5曲の切なさ、第6曲の孤独感がじんわりと胸に沁みる。レアともいえる2楽章の短品=ハイドンのソナタ第40番も、ブラームスの後にこの位置で弾かれると、ハイドン一流の軽妙さに血が通い、1つの芸術品に感じられる。そしてこれが、プログラムを1つの円環として完成させる。
この妙味が、「ハイドンありきのプロジェクト」に起因しているのは間違いない。昨年ルイスに取材した際、彼は「ハイドンのソナタを全部演奏したかった。でも一挙にやるのは無理なので、特に素晴らしい曲を選び、1つのプログラムにまとめる術を考えました。ハイドンのソナタはユーモアや驚きがあります。その対極がシリアスで重厚なブラームス、特に晩年の小品です。両者を繋ぐのがベートーヴェンのバガテル。愉しい曲も重い曲もあるので、絶好の橋渡しになります」と語っていた。まさしくそうだ。そもそもこれら4曲は、ブラームスを除いてコンサートで演奏される機会が少ないし、メイン曲になることなどまずない。それが本公演では、すべてがメイン曲として立ち上がってくる。この相互作用こそプログラミングの妙だ。
むろんそれも優れた演奏あってこそ成立する。ルイスのピアノは、ストレートで端正な中に、たおやかな知性と時に激しさが入り混じる。作為や誇張は皆無。てらいなく、だが生き生きとして深い。
彼に取材した際に印象的だったのが、正式にピアノを学び始めたのが12歳という、日本(世界でもそうかもしれない)では有り得ない経歴にまつわる話だった。
「ピアノのレッスンを、自分がやりたいかどうか分からない幼児期ではなく、音楽を追求したいとの思いが生まれ、長い視野で物事を見ることできる時期に始めたことが幸いしました。そしてブレンデル先生と出会うことができ、良いピアニストではなく良い音楽家になること、何より音楽そのものが最上位にあることを学びました」
このことが、彼のピアノを、テクニカルなマシンならぬ、音楽表現のための良きツールたらしめ、同楽器のマニアではない一般の聞き手にも、ピアノ音楽の魅力をナチュラルに体感させることに繋がっているといえるだろう。
来る11月の第2回は、ベートーヴェン→ハイドン→ハイドン→ブラームス、第3回は、ブラームス→ハイドン→ベートーヴェン→ハイドンと、3人の順番が変わる(特に始まりの作曲家が第1〜3回すべて異なる)。これに関して彼は、別のインタビュー記事で「各プログラムでそれぞれ効果的な組み合わせにしたいと考えています。共通点や相違点を感じ取りやすくしたい」と語っていた。今度はいかなる新感触を与えてくれるのか? 生で体験せずにはおれない。
ポール・ルイスが長年の夢をかなえるシリーズHBB PROJECTは、
彼のこれまでのさまざまな活動が凝縮した濃密な内容が魅力
伊熊よし子(音楽ジャーナリスト)
© igor.cat/Harmonia Mundi
イギリスを中心に世界各地で活発な演奏活動を展開している実力派ピアニスト、ポール・ルイスは長期に渡ってひとりの作曲家の作品を集中的に演奏し、また全集録音を行うことを好むピアニストである。1993年にはアルフレート・ブレンデルと出会い、99年まで約6年間じっくり彼のもとで研鑽を積み、音楽のみならず多くのことを得た。ブレンデルといえばシューベルトを得意としていたことで知られるが、その恩師の流れを汲みながらも自身のシューベルトへの熱き思いを演奏に託し、2012年から翌年にかけて世界各地でシューベルト・チクルスを行った。
「ブレンデルからはシューベルトの作品の奥に宿る精神性、深い感情、何を伝えたかったかということを学びました。彼は弟子に一緒に同じ方向性をもって物を考えることを要求し、音楽に対する深い理解を求められました。もっとも大切なのは作曲家の魂を再現すること。演奏家が前面に出る必要はまったくないという考えで、私もそれを忠実に守っています」
ルイスは昔からシューベルトの歌曲にも惹かれてきた。演奏を始めたのは18歳のころ。ロンドンのギルドホール音楽学校に通う学生時代で、声楽科の学生と共演。以後、歌詞と音楽との融合を深く探求、数年前からは本格的に取り組み、テノールのマーク・パドモアと組んで「美しい水車小屋の娘」「冬の旅」などの録音に着手している。
「パドモアは洞察力が深く、研究熱心。一緒に演奏していると自然に私は声をまねしてピアノをうたわせていることに気づく。彼の声がからだに入り込み、耳に居座る感じ。その音を自分のフィルターを通してピアノで歌を再現するわけです。その感覚がシューベルトのピアノ作品を弾くときに生かされ、自然なうたいまわしができるようになります」
その言葉通り、ルイスのピアノはいずれの作品も情感豊かにうたい、語り、嘆き、悲しみ、その奥に潜む喜びや幸福も静かに浮き彫りにする。その演奏は聴き手の深い感動を呼び覚まし、作品へと近づける。まさに恩師ブレンデルの「作曲家を前面に、演奏家はその奥に」の精神を貫いている。彼は8歳からチェロを始めたが12歳でピアノに転向。「ピアノこそ自分の楽器」と明言、ピアノで歌を奏でている。
そんなルイスが2017年から19年にかけて取り組んでいるのは「HBB PROJECT」。ハイドン、ベートーヴェン、ブラームスの作品を組み合わせるプログラムある。
「子どものころからハイドンの作品に魅せられています。ユーモア、驚き、サプライズがあり、人が声を出して笑えるような音楽。どうしてみんながハイドンを弾かないのか不思議なくらい。ずっとハイドンをメインに据えた演奏を行いたいと夢見ていましたが、あまりにも作品数が多いため絞り込んでプログラムを組むことにしました。ブラームスはハイドンとはまったく逆のキャラクターで、作品もシリアスで奥深い。その間に橋渡しの意味でベートーヴェンを挟み込むことにしました」
ハイドンの話になると目の輝きが増し、知的で思慮深い彼が一気に雄弁になる。
「私のレパートリーの根幹を成すのはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトですが、幼いころからブレンデルの演奏を聴いてきました。のちに師事するようになり、いまでも大きな影響を受けています。彼はピアニストではなく音楽家であれということを教えてくれた。人生の導き手でもあります。近年は、私の主宰する音楽祭に詩の朗読で参加してくれるんですよ」
ルイスのハイドンは健康的で嬉々とし、ベートーヴェンは短編集を綴るよう。ブラームスは内省的で寂寥感が横溢。各作品の違いが浮き彫りになる一方、共通項も垣間見える。これは実力派ルイスの真価発揮となるシリーズで、さまざまな音楽活動で培ってきた要素が凝縮し、聴き手を作品へと近づける。ルイスのピアノは聴き終わると心身が浄化したような気分になる。これはピアニスト自身があくまでも作品の魂に肉薄し、その内奥を聴き手にまっすぐに届けてくれるからだろう。次回の「HBB PROJECT」も、3人の作曲家の奥深い魅力に酔えるひとときになるに違いない。
HBBプロジェクトvol.3(プログラムⅢ)の聴きどころ
青澤隆明(音楽評論)
© Josep Molina
第2回の終わりを継いで、この回はブラームスの「7つのファンタジー」作品116で始まる。作品119から少しだけ年代を遡り、一連のピアノ小品集の始まりに立つ展望だ。20の小品連作の大半は1892年に書かれたが、ブラームスが得意のピアノに立ち返って作曲の筆を進め、「私の苦悩の子守歌」と呼んだ世界である。
作品116は3つのカプリッチョと4つのインテルメッツォの7曲からなるが、全体には「ファンタジー集」という題が与えられている。カプリッチョ(プレスト・エネルジコ、ニ短調)、インテルメッツォ(アンダンテ、イ短調)、カプリッチョ(アレグロ・パッショナート、ト短調)と最初の3曲が短調をとり、続いて3曲のインテルメッツォがホ調をめぐって、アダージョ(ホ長調)、アンダンテ・コン・グラツィア・エド・インティミッシモ・センティメント(ホ短調)、アンダンティーノ・テネラメンテ(ホ長調)と続き、冒頭と同じニ短調のカプリッチョ(アレグロ・アジタート)が曲集をしめくくる。ポール・ルイスが成熟の年代に入るとともに親近感を深めてきたというブラームスの内心にどう迫るかが聴きものである。
一世紀と少し遡って、ハイドンのハ短調ソナタHob.XVI:20が採り上げられるが、これは1771年に着手され、80年に「6つのクラヴィチェンバロまたはフォルテピアノのためのソナタ」作品30としてウィーンで出版された曲集の最後に置かれた作品。エステルハージ侯の楽長になり、意欲的な作曲に邁進したハイドンが、とくに短調作品で強い情感の表出をみせ、「疾風怒濤」とも称された作風をとった時期の作にあたる。ハ短調をとるこのソナタも力強い表出をもち、強弱の変化も、そうした劇的な表情を示す。[アレグロ・]モデラート(ハ短調)、アンダンテ・コン・モート(変イ長調)、アレグロ(ハ短調)の3楽章ともにソナタ形式をとる引き締まった作品。シンコペーションと装飾の活きた緩徐楽章の美しさ、フィナーレのピアニスティックな効果も際立っている。
ベートーヴェンの「7つのバガテル」作品33は1802年に仕上げられ、どの曲も初期のピアノ・ソナタに通じる楽想をもっている。「つまらないもの」、「とるに足らないもの」といった意味合いの「バガテル」だが、これらの7曲にはもともとはソナタの楽章として構想されたものも含まれるかもしれない。それぞれが多様な曲調をとり、順にロココ風(変ホ長調)、無窮動的なスケルツォ(ハ長調)、ロンド風(ヘ長調)、複合3部形式のリート風(イ長調)、技巧的なロンド風(ハ長調)、「朗誦的な表現で」と示されるように成熟した内面の情感を宿すもの(ニ長調)、スケルツォ風のプレスト(変イ長調)と性格も異なる曲が織りなされていく。
第3回の結びは、ハイドンの変ホ長調ソナタHob.XVI:52。ポール・ルイスが拠点とするロンドンで、1794年に作曲されたものとみられるソナタで、出版は98年のウィーン。つまり、ベートーヴェンの作品33とかなり時期も近づいている。独創はこの師弟の身上でもあるが、ハイドンはこのソナタで、変ホ長調(アレグロ)-ホ長調(アダージョ)-変ホ長調(プレスト)という大胆な調性関係をとり、第1楽章の展開部などでも大胆な和声感覚を打ち出している。ホ短調の中間部をもつ緩徐楽章に続くフィナーレは、4分の2拍子だが、小節数でいうとハイドンの鍵盤ソナタで最大の楽章。疾走感をもって機敏に駆け抜けるエンディングだ。次なるシリーズ最終回への期待が、なんとなく急いてくるような気もする。
HBBプロジェクト vol.2(プログラムⅡ)の聴きどころ
青澤隆明(音楽評論)
© Josep Molina
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さてこの秋には、プロジェクトが第2回、第3回と歩みを進めていく。面白いのは初回がハイドン-ベートーヴェン-ブラームス-ハイドンという円環だったのが、第2回はベートーヴェン-ハイドン-ハイドン-ブラームスという展開、第3回はブラームス始まりでハイドン-ベートーヴェン-ハイドンと往還する。個性や様式の違いと共通するところとが、くるくると回転するように、鮮やかに聴き手を惹きつけることになるのだろう。HBBプロジェクトVol.1の聴きどころ
青澤隆明(音楽評論)
プロジェクトの始まりは、ほんとうに冗談のような、または戯れのような幕開けだ。
ド・ソ・ミ・と、上からぽつぽつと落下して始まる。すぐに左手が口をはさむ。まず p で出てきて、すぐに f でおうむ返し。ふざけた感じでもあり、こちらを確かめるようでもある。
それがハイドンのハ長調ソナタHob.XVI50。この軽妙で、コミカルな、どこかしらトムとジェリーみたいな始まりが、シリーズの愉快な駆け出しだとすると、続くヘ短調のアダージョはしっとりとして、中間部はハ短調から始まって調性を不安定に歩んでいく。フィナーレはリズムも抑揚も独特で、ハイドンの機智と才気が弾む。
少し先まわりになるが、ポール・ルイスの4回のプロジェクトを締めくくるのがベートーヴェン晩年の大曲「ディアベッリのワルツの主題による変奏曲」で、これも同じハ長調をとるという構成だ。「つまらない主題」からなんでも組み立ててしまうのが、ハイドンとベートーヴェンの師弟である。ふたりの違いはたくさんあるがユーモアのセンスもそうで、ハイドンは機転が利くが、どこか涼しい顔をして人を笑わす感じだ。かりに師譲りだとしてもベートーヴェンのほうはずっと肩肘が張っている。「面白いだろう?」の感じが、わりと押しつけがましい。相手が笑えば、得意げに自分も高笑いをするようなタイプだろう。さすがはロマン派の先達である。
6つのバガテルop.126は、ハイドンの先のソナタから30年ほど後、ベートーヴェンの後期様式の本質が凝縮された小さな大宇宙というべき傑作だ。と同時に、ベートーヴェンらしく芝居がかったところのある音楽で、全体の構成もそう仕組まれている。最初の5曲が、緩-急-緩-急-緩と配置され、カンタービレとプレストの交替をみせるシンメトリーの真中にコラール的な第3曲が置かれている。エピローグのように置かれた第6曲は、華やかなプレストの後に、ウィーン風のワルツが続き、冒頭のプレストに回帰して幕切れする。
ベートーヴェンの最後期作に続くのも、ブラームス晩年の6つのピアノ曲。彼が最後のピアノ作品群op.116~119に取り組むのは、遺書も準備した1891年の後、92年から翌年にかけてのことだ。もっとも親しんだピアノという楽器に託して、ブラームスという作曲家が到達した極点が、中声部に多く置かれた旋律とともに情感や内省における精神的な深みを顕わし、和声や技巧の面でも凝縮された果実を結んでいる。6つの小品op.118は1893年夏までに書き上げられて11月に出版、初演は翌年にロンドンで行われた。4つのインテルメッツォにバラードとロマンスを挿み、調性はイ短調-イ長調-ト短調-へ短調-ヘ長調-変ホ短調という構成。多彩に凝縮された6曲が、作曲家晩年の心境を切実に伝えてくる。
ロマン派の孤独な内心の後は、よく知られたハイドンのト長調ソナタ。プログラム全体がシンメトリーをなすようだ。ブラームス曲の約一世紀前に書かれたこのソナタは、ハイドンの冴えわたる実験性が出た作品である。2楽章構成で、ソナタ形式を避けるように書かれている。第一楽章はロンドと変奏曲の混合された形式で、プレストの第2楽章は3部形式。強弱記号が豊かに記され、和声的にもぐっと大胆になってきた。
こうして、形式的にも多様な創意をもつ作品たちが、プログラム全体をユニークに彩るわけだが、これはシリーズを通じての工夫だ。毎回が発見の多い、軽妙な愉悦と内心の深みに溢れたコンサートになるだろう。
一期一会を積み上げていくポール・ルイスのHBBプロジェクト
池田卓夫(音楽ジャーナリスト)
英国の実力派ピアニスト、ポール・ルイスが2011年から2年がかりのシューベルト全曲プロジェクトを始めようとした矢先の3月11日、東日本大震災が起きた。日本では東京・銀座の王子ホールで4月から2013年2月までの間に5回のシリーズを計画していた。多くの外国アーティストがキャンセルするなか、ルイスは約束通り、東京に現れた。「日本人と同じ地球市民として、私も恐ろしい事態を共有している」といい、「(来日は)大した努力ではない」と逆に、日本側の労をねぎらった。
オフステージも物静か、この世の本質を真剣に究めようとの眼差しは一貫する。シューベルトの絶望や孤独、死への恐怖と「かすかな希望」を激しい振幅で描き出したピアノ演奏には当初、拒絶反応を示す聴き手がいなかったわけではないが、最後の変ロ長調ソナタ(D.960)で「死を超越した天上の愛に満ちた世界」へと全員を誘い、大きな感動の輪で締めくくった。
あれから4年。当時、「今後はブラームス、ハイドン、モーツァルトへ守備範囲を広げたい」と語っていた本人の言葉通り、ハイドン(H)のソナタとベートーヴェン(B)のバガテルや変奏曲、ブラームス(B)晩年の小品群を組み合わせた3年がかりの「HBB」プロジェクトが王子ホールで実現する。最近の録音を聴くと、持ち前の端正さに何ともいえないニュアンスの味わい、音の深みが増しており、純粋にピアノを聴く喜びの中に人生の様々な場面を想起させる巨匠芸へと一歩ずつ、接近しているのがわかる。鍵盤音楽のパイオニア、改革者、完成者とそれぞれに時代の使命を担った3人の作曲家の創作の軌跡も、鮮やかに浮かび上がるはずだ。
ハイドン-ベートーヴェン-ブラームス
青澤隆明(音楽評論)
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さて、最初のほうの鮮やかな好例と言えば、まっさきに思い浮かぶのがハイドンの音楽である。リサイタルでソナタを聴いて、客席に笑いがこぼれるのは、それこそなかなかのものである。*
ポール・ルイスの名を世界的なものとしたベートーヴェン、そしてシューベルトのピアノ・ソナタとリートへの取り組みを経て、ポール・ルイスが向かうさきは、かくして歴史的にその前後を繋ぐ脈絡となった。
誰かを信じるということ
ポール・ルイスのピアノを聴くとき
青澤隆明(音楽評論)
誰かと会ったり、話をしたりして、その人はほんとうのことを言っている、つまりは信頼に足る人間だというふうに感じる。あるいは、音楽や演奏を聴いて、同じようなことを思う。その根拠はいったい、どこにあるのだろう? 経験や相性といったことのほかに。
ポール・ルイスのピアノは、私にとっては、どうあっても信用できる演奏である。彼のピアノはまっすぐに響くからだ。どこにも嘘をつかない。韜晦なところもなく、ギミックは用いない。
なぜなら、第一に音楽が、作品との向き合いかたが、そして音楽への願望が、ポール・ルイスにとってはそうしたものだからだ。混ざり気のない率直さというのは、現代ではなかなか目や耳にすることも難しいが、彼の演奏は驚くほどにストレートである。シンプルであることに努めるのではなく、ただまっすぐに物事をみつめる。それに見合う生きかたを、たぶんする。実人生のことはよく知らないので「たぶん」と言ったが、きっと彼はそうしている。
そのような演奏家がリヴァプールから出て、ロンドンに暮らし、アメリカを大きく熱狂させ、そして日本をたびたび訪れる。20歳からアルフレート・ブレンデルに師事したというが、ポール・ルイス自身のアプローチは、決して議論好きなものではない。しかしブレンデルが「急がず、じっくりと作品を勉強するように」と言ったのは、自らも遅咲きと言えるだけに、大きな励ましとなったことだろう。ポール・ルイスはフットボールにも熱中せず、ひたむきに、ひたすら音楽にクレイジーにやってきた。すべては愛するがゆえ、しかもまっすぐと愛するがゆえのことである。
だからこそ、ポール・ルイスのピアノを聴くときには、なんの躊躇いも偏見もなく、すっと彼の音に耳を澄ますことができる。それが十分に考えぬかれたうえでの表現であるにせよ、それでも節制の効いた演奏のなかで、ポール・ルイスがことさらに知性を浮き立たせることはない。直截に音楽に入っていけることが、聴き手に晴朗な見通しをもたらす。
たしかにイギリス期待のピアニストで、いまや代表格のひとりとみなされるようになったのは事実だとしても、ポール・ルイスが多分にイギリスくさいピアニストかというと、私にはそうは思えない。彼は閉じられた世界からやってきたわけではない。日本人が島国というと自嘲的にも響きそうだが、いわゆる大英帝国の典型として誉れ高い、癖のあるアイロニーや閉塞的なユーモアは、彼の晴れやかな視界を塞ぐことはない。もったいぶった言いかたもしない。
もっといえば、歴史ある都市が鬱々と溜め込んできた”くさみ”のようなものはないし、アングロ・サクソンの素朴な感触はあっても、おそらく訛りのようなものはあまりないだろう。さまざまな作品に則すわけだから、彼の場合、それは当然のことだ。
いっぽうで良さと言えば、多くのピアニストが課題とするドイツ・オーストリアの音楽から、もちろんラテンやロシアの作品からも、よい感じに距離が置かれていることである。こうした適度な距離は、ポール・ルイスの構築の澄明感と、どこかで関係しているに違いない。もっとも、ロンドンで愛されたハイドンのユーモアに関しては、やはりどこか実感しやすいところもあるだろう。
だからこそ、ポール・ルイスの演奏は、見晴らしよく開かれている。クラシックの熱心なリスナーでなくとも、ダイレクトに入っていける率直さがある。聴き手はまっすぐに、ボール・ルイスのピアノに耳を向ければいい。そして、彼がみるように、作品の世界をみつめていけばいいだけだ。構えも気取りもいらない。あとはポール・ルイスの真率さが、聴き手をストレートに作品のもとへと連れていくだろう。
HBBプロジェクト プレスリリース
HBBプロジェクトに寄せて
〜美しさ、真実、ユーモア〜
翻訳:後藤菜穂子(音楽ジャーナリスト:ロンドン在住)
© Harmonia Mundi Marco Borggreve
おそらくヨーゼフ・ハイドンほど、音楽の持つ力、すなわち人々を驚かせ、魅了し、また喜びと笑いの涙を誘う力について深く理解していた作曲家はいないのではないだろうか。英国のピアニストのポール・ルイスは、今シーズンから来シーズンにかけてのリサイタル・シリーズでハイドンのピアノ・ソナタの名作を取り上げ、そのウィット、ユーモア、情緒および深遠さを探求する。
彼は今後Harmonia Mundiレーベルから2枚のハイドン作品のアルバムを出す予定で、1枚目の録音はすでに済んでいる。新しいディスクは2018年のリリース予定で、これまでに数々の賞を受賞したベートーヴェンやシューベルトなどのディスコグラフィーに新しいレパートリーが加わる。
今シーズンのルイスの世界各地でのリサイタルは、9月〜2月、3月〜6月という2つの時期に分かれており、彼がずっと演奏したいと思っていたハイドンのソナタの世界に没頭できる。この〈ハイドン・ベートーヴェン・ブラームス〉のリサイタル・シリーズは2シーズン続くが、2017/18年の主要な日程としては、ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホール(1月23日、6月5日)、エディンバラのクイーンズ・ホール(10月23日、3月19日)、ブリュッセルのフラジェ(10月5日、6月10日)東京の王子ホール(11月29日)、メルボルン・リサイタル・センター(12月4日)が挙げられる。
そのほかにも、カーネギー・ホールのザンケル・ホール(11月15日)、パリのシャンゼリゼ劇場(1月21日)、レイキャビックのハルパ・コンサートホール(2月4日)、フィラデルフィアのペレルマン・シアター(5月10日)、シューベルティアーデ音楽祭(6月26日)などでもリサイタルを行なう。
「一人の作曲家の作品に没入すればするほど、その多様性を発見できるのです」とルイスは語る。「今回の一連のプログラムは、ハイドン、ベートーヴェン、ブラームスという3人の作曲家の共通点およびつながりに焦点を当てたものですが、全体として一つの大きな作品のように感じられます。これらのコンサートを終える時には、ベートーヴェンやシューベルトのソナタ・ツィクルスを弾いた時と同じように、まだ始まったばかりなのにもう終わってしまった、と思うことでしょう。こうした偉大な作品のすばらしさは、作曲されて200年もたつのに今なお私たちは新しい面を発見し、またその音楽の人間的な面に共感できるということです。これらの作品は私たちにいろんな形で語りかけてくれますし、私たちが言葉にしづらいさまざまな感情や心理状態を表現してくれるのです。ある意味、それらの作品の美しさはいつまでも失われることはありません。現代のようなすべてが速く、うるさく、極端な時代においては、その美しさはむしろ高まると言えるかもしれません。今日のような混沌とした世の中において、私たちはこうした平穏さと美しさをより必要としているのです」
ルイスがハイドンの音楽に惹かれた理由の一つは、滑稽さを愛する作曲家だからだと言う。「ハイドンの音楽は私たちを微笑ませてくれるだけではなく、声を出して笑わせてくれます。そのような作曲家は他にはなかなかいません。ベートーヴェンもユーモアは使いますが、彼は人をびっくりさせることで笑わせます。でもハイドンは後ろから忍び寄ってきて脇腹をくすぐるのです!モーツァルトも笑わせてくれますが、彼の場合は、私たちが彼はいったいどうやってこんなすばらしい音楽を作曲したのだろうと驚嘆しているのをどこかから見てにやりと笑っているような印象があります。
ハイドンはいたずらっぽく私たちを驚かせるのであって、ベートーヴェンのように不機嫌だったり荒っぽかったりすることはありません。ハイドンの音楽には悪意はなく、つねに上機嫌で愛想がよいのです。現代のように極端なことが当たり前な時代においても、ハイドンの聴き手をびっくりさせたりからかったりする手法は斬新に感じられます。本当にすばらしく創意に満ちた音楽であり、このたび演奏および録音できることにわくわくしています」
その上ハイドンの音楽には悲劇的な面も崇高な面もあり、その旋律書法の簡潔さもルイスにとっては大きな魅力だと話す。「ハイドンの音楽には無駄な音はひとつもありません。ですので、一つ一つの音の色合い、性格、そして意味合いがとても重要なのです。それはとりわけピアノ・ソナタの緩徐楽章において顕著で、彼が少ない音でこれほど深い表現ができるのは本当に驚異的です」
今回の曲目は、1770年代中頃から1790年代中頃にかけて作曲されたソナタの中なら選ばれ、激情のロ短調のソナタ(Hob XVI/32)からとっぴなハ長調のソナタ(Hob XVI/50)まで多岐にわたっている。
他方で、ルイスはブラームスに対しては、ハイドンほどすぐには惚れ込めず、ブラームスの音楽を愛するようになるには時間がかかったと語る。「音楽家でブラームスが苦手という人は私だけではないと思います。私は長いこと、ブラームスにおいては表現がその作曲技巧に閉じ込められており、彼の音楽は技巧がすべてだと思っていました。しかし私も40代になり、そのパラドックスがむしろ愛おしく思えるようになってきたのです」
こうして次第にロマン主義的な極端さと精確な作曲技法を合わせ持ち、また抑えきれない表現と洗練された技巧という、相反する特色をもったブラームスの音楽に魅了されるようになったと言う。「ハイドンと同じく、ブラームスもたった一音で多くのことを表現することができます。ピアノ協奏曲第1番の冒頭の最初の低いD音について考えてみてください−−これはシューマンがライン川に投身自殺をした直後に書かれた作品なのです。またブラームスについても、ハイドン同様、書法の簡潔さが特色として挙げられると思います。とりわけ、彼の後期の作品−−間奏曲、幻想曲や作品118や119の小品集—の主題にはさまざまな思いが込められていると思います」
最後にルイスは、ベートーヴェンを加えてプログラムを完成させることにした。今シーズンと来シーズンにかけて彼の3つの「バガテル集」を1つずつ取り上げ、さらに2019年の最後のプログラムは《ディアベッリ変奏曲》で締めくくる。「ベートーヴェンのバガテルは、まだハイドンが存命中だった頃に書かれた作品33から、最後のピアノ作品となった作品126まで幅広い時代にわたっています。今回のリサイタル・シリーズの関連でいえば、ベートーヴェンのこれらの作品はそれぞれのプログラムをくっつける「糊」の役割を果たしているといえます。ハイドンの奇抜さ、ユーモア、驚きともつながっていますし、他方で晩年のバガテルは、ブラームスの小品集を先取りしている感があります。そして《ディアベッリ変奏曲》にいたっては、山頂に立って、過去、現在、未来を見渡しているような音楽だといえるでしょう」